【大先輩フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト先生】
今から30年以上も前のことですが,私がヴュルツブルグ大学の学生であった頃,学生寮に独逸の一女学生が私を訪ねて来ました。彼女自身の紹介で名前はクラウデイア・シーボルトと名乗り夏休みの間日本を旅行して丁度独逸に帰国したとのことでした。この学生寮には日本人は私一人しか住んでいませんでしたので彼女が私を訪ねて来ました。彼女の姓がシーボルトですぐにシーボルトの子孫と分りました。シーボルトといえば「シーボルト事件」で1829年日本から国外追放となった事件として有名です。そしてシーボルトは長崎での蘭学医師と思われていますが,実際は独逸のヴュルツブルグで1796年2月17日に生まれでヴュルツブルグ大学医学部出身の独逸医師です。私はヴュルツブルグ大学医学部を1979年に卒業しましたので,シーボルトは私にとっては約160年の年代を経た同大学の大先輩になります。独逸国内ではシーボルト自身日本ほど有名では有りませんが最近1995年シーボルト記念館がヴュルツブルグ郊外に設立されました。シーボルトゆかりの品々を展示する他,日独の文化交流の場所として利用されています。私も日本に帰国後2回程シーボルト記念館を訪問しましたが残念ながら2回とも休館日だったので館の内部を見ることが出来ませんでした。そのことはいまでも残念に思います。1829年12月シーボルトは日本から国外追放となりましたが妻子に別れを告げるシーボルトの胸中はどんなだっただろうか?その後30年を経た幕末に彼は再度青春の思い出の国日本に渡来しましたが,いかなる日も忘れたことのなかった妻子との再会した際の感激はどんなだっただろうか?激動の時期を過ごしたシーボルトも不運ながら1866年10月18日ミュンヘン郊外で敗血症を患い,臨終の際シーボルトは「余は美しき平和の国にゆく」と言い残しましたが「美しき国」とは江戸時代の日本の国だったのでしょうか?当時はおそらく日本も美しかったのでしょう。
シーボルトの胸像(独逸ヴュルツブルグ郊外に於いて)
ヴュルツブルグ市街
ヴュルツブルグ大学附属病院と学生寮
雪景色のヴュルツブルグ
シーボルトの玄孫・クラウデイア・シーボルトが日本の親戚を訪ねて来日したときの新聞記事
彼女は1977年11月13日に日本から帰国後、シーボルトの故郷ヴュルツブルグの学生寮を訪問したので私は彼女に会うことが出来ました。彼女自身の詩集に別れる際「工藤 多幸を祈る クラウディア」のメッセージを頂いた。
【シーボルト先生の写真】
【シーボルト生誕からの歩み】
1776年02月17日 ドイツヴュルツブルグで生まれる。
1815年11月12日 ヴュルツブルグ大学医学部に入学。医学・地理学・民俗学を修める。
1820年 ヴュルツブルグ大学医学部を卒業し,近郊ハンディングスフェルトで開業する。
1822年 オランダ領東インド陸軍外科少佐に任命される。オランダ・ロッテルダムから
ジャワ・バタビアへ向けて出発する。
1823年08月12日 長崎出島商館付医官として着任。「たき」と結婚。
1824年 鳴滝の民家を買い取り,医学教育や日本研究の拠点とする。「鳴滝塾」
1826年 商館長に従い,江戸参府。
1827年 娘「いね」が生まれる。
1828年 「シーボルト事件」が起こる。
1829年 国外追放を申し渡され,日本を離れる。
1831年 オランダ国王ウイリアム I 世から勲章を授与される。
1832年 「日本」の出版を開始する。
1833年 「日本植物誌」の出版を開始する。
1845年 ヘレーネ・フォン・ガーゲルンと結婚する。
1858年 江戸幕府シーボルト追放令解除。
1859年 長男アレクサンダーを連れてオランダ貿易会社の顧問として再度長崎に来る。
1861年 一時,幕府顧問となる。将軍徳川家茂に謁見。
1862年 シーボルト日本を去る。
1864年 ヴュルツブルグに移り住む。
1866年10月18日 独逸,ミュンヘンで没する。
【関係文献】
「シーボルト」:板沢武雄 吉川弘文館
「シーボルト父子の見た日本・生誕200年記念」ドイツ・日本研究所発行
「再現・日本史」:江戸III F:講談社
「シーボルト家のニ百年展」:シーボルト記念館発行
「シーボルト研究・日獨文化協会編」名著刊行会
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